僕の理論がなぜ全てを丸く納めることができるか次元文学(勝手に考えた言葉)で表現してみたい、その後に神道の凄さと関係性を、、、


僕の理論がなぜ全てを丸く納めることができるか次元文学(勝手に考えた言葉)で表現してみたい、その後に神道の凄さと関係性を、、、


旧約聖書にはざっと表現すると現実が書いてある


その現実を長い争いの歴史により極みにまで昇華させたのが儒教と言えると思う


旧約聖書は起きたことが綴ってあるから昇華していないという意味ではなく整理していない


頭のいい人は全てを覚えて理解できるのかもしれないけど普通に読んだら色んなことがあったんだなぁで終わる


これらの感性をざっと分けると原理主義やカトリック、仏教の色やリアリズムと表現できると僕は考えている


因みに僕はアカデミアの人々との交流がないのでどうカテゴライズされているかは知らないし、そんなの今さら言うまでもないと言われても困る


オナニーの邪魔はするものではない、そういった不躾な行いを野暮という


話を戻します

それら原理主義に対する概念が仏教の空や新約聖書で理念や想像からなる理想的で全体を見渡した感性からなる


つまり個と全体という表現に二分化することができる

仏教では大乗と小乗とも表現されている


ここでいつも人類は問題を抱えてきた


原理的な物質の世界の掟、強ければ生き弱ければ死ぬといったような世界ではいたたまれないことが起きる

そして何かにすがりたくて神に祈る

僕個人の解釈では旧約聖書や新約聖書に出てくる主と言われる知的生命体はSFでも何でもなく人間だと考えている

もしかすると今も先祖代々生きいったような世界ではいたたまれないことが起きる

そして何かにすがりたくて神に祈る

僕個人の解釈では旧約聖書や新約聖書に出てくる主と言われる知的生命体はSFでも何でもなく人間だと考えている

もしかすると今も先祖代々生きていてユダヤ人などに混ざっているのではないかと考えているし聖書を普通に読むとそうなる筈だ

だから西洋ではすがるものが実際に目の前に存在していたことになる

つまり聖書自体が宗教ではなく神様のお言葉であり現実なのだ

なので表現が整理されておらず起きた順番に教えられた順番に並べられることになった

なので原理的な解釈の強い東洋人は理解に苦しむことがある

旧約聖書ではリアルな世界を描いており新約聖書では理想や未来について描かれているからだ


つまり相反する混ざり合うことのない現実と理想を突きつけられることになるのだ

全体と個、理想と現実

二次元の世界により表現されている


統一的に考えたがる人には掴むことは出来ないのだ


そこで仏教では縁起という繋がりについて解いているようだ(因みにお経などを解読したことはない)

これについてはこういう説明が分かりやすいと思う

個人が幸福になろうと他を陥れると個人は様々な原理により不幸になる

精神的な制約やそこから始まるリアルな世界に不具合が起こる

反対に全体を幸福にしようとすると自らに近い存在を貶めることになる

我が子に与える愛など精神的なものも含めた個から発露される影響を自らに近い存在を蔑ろにして全体に貢献することになる


この相反する感性が纏めることが出来るのが縁起でありデールカーネギーさんの言うところの原因と結果と言えると思う

これにより三次元で統一されることが出来る


つまり個人の幸福を追求したところで個人は幸せにはなれない事が多々ある

さらに大きな集合体により弾圧されるから

最大の集合体による幸福を追求したところで少数を踏み台にすることになる

つまりどちらかだけにに答えを求めることは必ず間違いにたどり着くことを示唆している


相互の関係により成り立つものであるからその存在を認識する必要があるということ

その存在のことを縁起と表現したのだと僕は解釈している


キリスト教でも表現されているのかもしれないけど一言で表現されてないからわかりにくい

起きた現象から読み取ることが出来る人はとても幸運で頭のよい人だと言える

読み取ることができたのがデールカーネギーさんなのかもしれない


そしてその縁起に初めから辿り着いたのが神道と言え八百万の神に始り和によりこれを表現している


しかしこの縁起や和と表現されるものにもさらなる壁が存在している

それは関係性を認識したところでどうしても生まれてくる少数派や不運な出来事を網羅してはいないからだ

もちろんそれは時代経るに連れて細分化され続けるだけのものともいえる

なので僕はこう細分化した


満たされた人々と満たされていない人々


満たされた人々とはキリスト教で表現すると救われた人と言えると思う

お金持ちでも救われていない人もいる

救われていないとは仏教ではアートマンやブラフマン、煩悩や涅槃と表現されている


この人々を救うことが出来るのは枠に囚われない適材適所に配置することで達成することが出来る


人間はすべて動機に由来する

その反応がどうなのか千差万別

しかし明らかなのはすべての人が幸福になろうと作用しても反作用する存在が生まれるということ

これは生命の原理であり逆らうことは不可能だ


例えば日本でこんなに裕福なのに幸せを感じることが出来ない人

周りが幸せでも自分は幸せに乗り送れる

しかしそのポジションを譲ることができて交換するだけでお互いが幸せになれるかもしれない

日本人からすれば不幸なのに貧しい国の人からすると幸福で不幸な日本人からするととても幸福に感じると言うこと

これらに折り合いをつけることが出来たるうなやすいと思う

個人が幸福になろうと他を陥れると個人は様々な原理により不幸になる

精神的な制約やそこから始まるリアルな世界に不具合が起こる

反対に全体を幸福にしようとすると自らに近い存在を貶めることになる

我が子に与える愛など精神的なものも含めた個から発露される影響を自らに近い存在を蔑ろにして全体に貢献することになる


これにより多次元的に世界を表現できる


この救われた人々と救われていない人々という定義を認識すれば適材適所という感性によりポジション(人事)に変化をつける一助となる


もちろん人間は飽きっぽいことも考慮しなければならないがまさにだからこそこの多次元的感性によりより人材を活かす社会作りが可能となる


この事が分かればPKOなどの国際貢献団体を反対に食い物にしようとする人々を征することが可能となり、つまり戦争をしたとしても認め合うべき敵であり、その後には仲間となれると言うことであり、敵同士の両者のところに他国のジャーナリストが入ることが可能なのは根幹では同じものであるということの証明であり、様々な紛争を痛みがあるだけのものではなくすることが出来ると考えた次第です


つまり適材適所なのだということに尽きると考えこれにより人類は皆が好きなことをしても能動的に悪意を持ち他人の権利を犯すことさえしなければ何も問題はなく自由に生きることが出来る、当てはまる、ということが言えます


これにより死刑制度や部落民による気持ち悪い嫌がらせは完全に間違いであり人類をおとしめている原因そのものだということが証明されました