高原剛一郎さんへ、アメリカと日本を聖書で考えるならアブラハムとロトというのはそのままの解釈でしょうか?

高原剛一郎さんへ、アメリカと日本を聖書で考えるならアブラハムとロトというのはそのままの解釈でしょうか?


聖書については僕のイメージにすぎないのですがそれはもはやアブラハムとロト

アメリカの金魚のふんである日本にある種の嫌気が差ししていると感じます

アメリカは戦争だっていとわない国家なんだけど日本がすり寄ってくる以上、何かと平和が付いて回る

豊かで独立できるのに付き従って離れない

何も決定はしないし責任は結局アメリカにのし掛かる


アブラハムはこんな感じでロトを引き離した

僕は右に行くから君達は左に行ってくれ

これで僕たちはさよならだ

君はもう大勢の人も抱えているし、ここで別れることにしよう


ここに付随する情緒や背景について僕はなにも読み取れていない

例えばアブラハムは力を持ち始めたロトに嫉妬したのかもしれない

ロトの未来や連れている人々の間の確執などを危惧したのかもしれない

ただ確かなことは引き離したということ


高原剛一郎さんが聖書を読み解くときは書いてあるままをそのまま受け入れろと言った

そのまま読み解けと言いながら聖書について解説なされている

そのまま読み特のであれば解説する必要はない

一緒に朗読すれば良いからだ

一緒に朗読するとこんなことになる

こちらの人はこう解釈した

あちらの人はこう解釈した

つまりそのまま読み解いたとしてもその答えは千差万別

何故ならそのようにして言語による表現というものには限界があるからだ


これと同じことが主と登場人物、当時の感性と現代の感性の間に生まれる

つまりそのまま読み解くことで現代人が理解するのは不可能なのだ

そればかりではなくヨハネがわざわざ一文字も改編してはならないと書き残した背景には何があるのだろうか

勝手に聖書などを書き換えるなんてするわけがない

しかしわざわざ書き加える必要があった

もちろん書き加えたりする不届きな存在が現れそうだと感じたので書き加えたのかもしれない

だけれども僕が思うにどこかでなにかしら発見したのだと思う

書き換えられた箇所を

もちろん書き換えたから意味が変わったかどうかはわからないし書き換えたからこそ意味がわかることができたのかもしれない

ただどちらにせよ確かなことはそのまま読み解くことは不可能であるということ


ただもちろん大前提はそのまま読み解くということに尽きる

それは人間が持ち得る感性をそのまま素直に聖書に向けるという意味において


もちろん高原剛一郎さんはクリスチャンだし云わば布教活動のプロだ

だからあえて素人の人にはこういう言い方をすることで聖書の世界にのめり込むようにしているとも考えられる

高原剛一郎さんはいつもこうおっしゃっている

とにかく聖書を読め


アブラハムはロトに別れようといいロトは素直に従った

ロトはその後、主の恩恵を浴びながら旅を続け繁栄し続けた


日本はアメリカとくっつき続けようと離れようと根本的に繋がっていることが必要だと思う

それはロトが一人の頃からアブラハムと生活を共にすることで主の恩恵を受けることができたように


アメリカでは度々東洋思想のムーブメントが起きている

ヒッピーがお経を読みプログラマーが禅をする


アメリカに甘えるのもアメリカの影に隠れるのも僕はお勧めする

だけれどもその事を政治や経済だけで考えていてはダメだと思うし何よりもそれこそが日本人の現在の意地汚さ、貧しい守銭奴マインドから抜けることの出来ない原因でありアメリカを助けてやるかとか責任を持つために必要な日本という自我を持つことが出来ない原因だと感じる


だから僕は聖書を読む


たまに