ITによる弊害は心の闇

現在日本で活動しているコメンテーターが情報の錯綜により見たいものしか見なくなり分断が強まるという分析をしているのをよく耳にするようになりました。

これは正しい様に感じますがそれは短期的な目線で見た場合であり恐怖を抱くとそう感じてしまいます。もちろんそのように情報操作を行なえば真実となりえるでしょうが長期自然的に見た場合にはこれは間違いとなります。

なぜならば人間の反応には二つしか選択肢がなく偏りが大きくなればなるほどより戻しも大きくなります。つまり分断が強まり右傾化しより小さなコミュニティを優越し始め辿りつく先は孤独であり存在の否定です。

なので大きなより戻しをどんどん大きくしていくことは破滅につながるということであり想定する必要がないからです。

破滅した世界を思い描くなら考える必要などないのです。

途中経過はあるにせよ、そうならない破滅していない未来しか存在しえないのです。

もちろん反面教師として分断が起きるということは語るに意味がありますが問題はその反応ではなくその連続性の中でどこに向かおうとしているのかです。

裏切りや分断や憎しみや憎悪の世界になればよいという人は基本いないでしょう(日本にはそういう組織が国権の中枢に存在する)

つまり理想を掲げることが必要だということであり目的を明示する必要があることから文明社会は免れないということです。

確かに分断は起きていますがそれは一時的にそう見えるだけで健全なものだと言うことです。

東京大学の教授なども警笛を鳴らしていますが

1.「見たいものしか見なくなり個人の興味に当てはまるものだけに集まり価値観が偏り分断が起きる」ということですがこれを問題視しているということはきっと革命や虐殺が起きると思っているのでしょう。

この意見には少し賛同しますが短絡的過ぎるというに尽きます。ちいさな分断は対した脅威にはならないし多様な価値観が溢れることでより人間らしく生活が出来るだけでなく多様な価値を認め合い貶し合う場が提供されることになります。気の合うもの同士集まり暮らすことは問題になりえません。気の合う仲間と褒めあい気の合わない存在の文句を言いながら生活するというのは正に人間の理想的で最高の生活です。

もちろん法やルールがあることが前提

テロなどの温床になることも考えられますがそれはこれまでもずーっとそうでしたし、ITのお陰で動向や趣向まで分かるのであればこれまでよりも反乱分子の発見やまたは教育がしやすくなったということです。ITのせいではなくお陰と言うことで馬鹿が減るということですがその前に馬鹿が悪いということは間違いだと言うことを理解させなければなりません。情報処理の正確さに欠けるというだけで馬鹿にしか出来ないことや馬鹿だから出来ることはたくさんあります。

人や世のためにだってなるしなによりも馬鹿だと言うことは愛すべき対象であるということで人間であるということの証明なのです。

むしろ自分は馬鹿でないと考えている場合は自分が芸を仕込まれたチンパンジーに過ぎないことを理解していないと言うことであるので責任ある立場に付いた場合は共同体の大きな害悪となりえる存在です。

自らを律する馬鹿な人だけが人間たる人間と言うことに他なりません。

律する必要がなかった人はそのうち大いなる決断を踏み外すことは自然の摂理なのです。

二つ目

2.「情報が多すぎて正しい情報がどれだか分からない、危険な気がする」、、、

危険です、その危険の根底にあるのはこう考える人の心の闇です。

人生すべてかけて情報を集め、たどり着くのはいうなれば究極の世界です。極端だともいえますが大きなうねりを持つものは結局二つに絞られます。こういった対立は人類が始まってからずーっと繰り返している対立であり、いまさら考え始めることではありません。頭を使わずに生きてきた人、歯車教育で作られた世界観の中に閉じこもっていた人はこのように違う思想の存在に危機感を持ってしまいます。

情報が多すぎて正しい情報が分からないとはどういう意味だか考えてみてください。まるでこれまではすべてにおいて正しいことが分かっていたような言い分ですがそんなはずはありません。

とはいえ言いたい意味は理解できます。

これまで日本の学校教育は一つの絶対にある答えを導けるように繰り返し反復し繰り返すことで評価し社会に送り出してきました。

まさに歯車を作り社会に組み込ませるといったようなやり方で自分はすべてが分かっているというような気になって生きてきたのです。もともと情報などというのは人生が一万回あっても人間が処理しきれないだけ存在するし書物一つとってもこういった恐怖感をお持ちの方に限らずほとんどの人々の脳には完璧にインストールされていないことは想像にたやすいでしょう。

私たち人間は何となく大まかな流れを読みながら分かった気になって生きているだけなのです(もちろん個人差はある)

彼女のように情報が多すぎて怖いということは大きな枠組みとしての知識や教養が身についていないということであり、分かる世界の中だけでしか生きてこなかった田舎者と言うだけの話しです。

初めて東京に行った時を思い出しました。

見たことのない高いビルに見たこともない綺麗なお姉さんや見たこともないような高そうな服を着た人に見たこともないホームレスの集団に外国人の殴り合い、ぼったくりキャバレーに巨漢が現れる風俗

確かに知らない世界は恐怖を伴うものではありますが自分が知らないからといっても信じることが出来ていれば目隠しでも歩くことが出来るし、なによりも一番の問題は自分がすべて知っていると思っている傲慢な心であり、繰り返すようで真に恐縮ではありますがこういった方のような弊害を作り出したのは紛れもない昭和の歯車生産洗脳義務教育であり、これからの日本人(昭和の義務教育を受けた人は特に)は見たくないものにも目をむけ(自分がただの動物であり、毛嫌いする小汚いホームレスと何一つ変わらないという事実であり、つまり自分の中にも悪が存在するということ)事実と対面し理想という未来を歩む覚悟が必要なのだということなのです。

自分が何も知らない惨めな人間だと感じてしまったとしてもその現状を恥じる必要はないし、伸びしろがあるということの証明でもあるのです。

信じることで楽になれるしパフォーマンスも上がります。

疑う事でパフォーマンスは下がりますが挑戦する準備をすることが出来ます。

いつだって人は知らないことや経験したことがないことに対してはただのサルと同じなのです。

くだらない情報に惑わされない大局観を持ちましょう。

初心忘れるべからず

無知の知とは正にこのことなのです。