違うということ 昭和の勝者たちの憂鬱

何故争うのか考えた

一言で表現するとこういうことだ。

全ての物事には善と悪、両方の側面があるにもかかわらずどちらかだけにしようとする。

つまり白黒はっきりさせて思考をやめたいのだ

これは人間の怠慢と言えるのだがもう少し紐解いていきたい。


ポツダム宣言について共産党の志位和夫委員長が安陪晋三首相に次のように聞いた。

「日本の戦争について世界征服のためであったと明瞭に判定している。総理はこのポツダム宣言の認識を認めないのか。」

これに対し「その部分をつまびらかに読んでいないので直ちに論評することは差し控えたい。先の大戦の痛切な反省によって今日の痛みがある。」と答えた。

こういった歴史的大事件ですらはっきりとした答えはない。ないというよりも言語というものの表現に限界があるし、そして時間による限界と聞き手の脳みその限界だ。

質問が悪いというわけではなくこちらの二人がじっくりと内密で公職という立場をなくし責任も問われない状態で話せば三日三晩でも語らいあうだろう。そして決着はつかない。

つかない理由は単純だ。その場にいたわけではないから真実は分からないということと立場により認識が変わる。

もちろん元々の動機として利権や組織の体裁などにより譲らないということも容易に考えられるがそれについてはここで是非を問うつもりはない。

つまり物事には善と悪の両方が存在しているということだ。

これだけであれば何も問題はない。

しかし何故か人間の中には自分だけが正しいのだと頑として譲らず、さらには物理的攻撃などを行使する人々がいる。

そして幾度となく人間は殺しあいをしてきた。

正しいのだと言いながらわが子を戦地に赴かせるのだ。


確かに戦わなければならないときもあるだろうがそれは何時なのだろうか。それは大切なものを傷つけられると感じたときだ。しかし人間は価値観が違う生き物だ。生まれながらに凶暴な人は先祖を辿れば勇敢な戦士であったであろうし戦いを好まない人は家を守ってきたのだろう。もちろん皆どちらも備わっているものではあるし、後発的環境要因により変化していることも否めないだろう。暴力的な親の元で育った人間は暴力に対し耐性がある。言語表現豊かな環境で育った人間は言葉でたたみかける事ができる。

そしてまた対立が生まれる。

どちらにも悪があり善があり正義がある。

例えばこの二つの相容れそうにない物理的力と言語的力の性質を纏めるものはなんなのだろうか?

まず確かなことはお互いが正しいと主張するということ。つまり正当だと主張することで対立が生まれる。

結論から言うとどちらもすべて何時いかなるときも正しいということはない以上、唯一間違いでないものはどちらかだと決め付けないことだ。

しかし問題が起きるのはこの後だ。


言葉で正義を語るということは聞き手も言葉を理解しなければならないが、暴力を得意としている場合に言葉を巧みに操るのが苦手とする。その場合、暴力で表現することとなる。

反対に暴力で正当性を主張すると受け手も暴力で返さないとならないが、現語を得意としている場合に暴力を苦手とする。その場合、言葉で表現することになる。

どちらも同じように見えるが決定的な違いがある。

それは物理世界への直接的影響だ。

言葉でいくら正当性を主張しても直接体が傷を負うことはない。

暴力の場合は直接傷を負う。

なので人類は法や倫理観などを印し、広めることで暴力に制約をかけた。

そして人類は言葉に力を持たせ暴力を制圧した。

そして現在、知能による力関係が出来上がる。

そして時の権力者たちは暴力を司る軍の使用権を奪い合った。

しかし知能が権力を握り、世代を超え暴走が始まった。これは実際に痛みを伴わない文民(知能)が軍(暴力)を動かすことによる副作用とも言える。

なのでシビリアンコントロール(文民統制)は危ないともいえる。

だからといって考えなければならないのは、暴力しか知らない人々が権力を持つということだ。これは危険極まりないことは分かってもらえると思う。

なのでやはり文民に頼らざる終えない。


ここで問題になるのはでは生まれながらに頭の悪い人はどうすればよいのだろう。

暴力が得意な人が言葉が得意な人に勝てないようにしたのは暴力を制し、正しいときにしか使えないようにしたからだ。

その正しさを証明したのは言葉によるものだ。

つまり殴りあいの末、勝った方が正しいということと言葉でねじ伏せることは同じ暴力なのではないだろうかという結論にたどり着くのだ。

そしてこの世は間違っていると暴れまわる人がいる。

こういう人を単細胞という。


暴力に正当性をもたらしたのが言葉だということを理解しなければならない。

つまり暴力は元々、善でも悪でもない。

人々が経験的に暴力により辛い思いをしてきたから基本的に悪だと決めたのだ。つまり長年の経験による人々の合意の上に暴力を制する法などの文(言葉)がある。

だから暴力は言葉により存在をもたらされたといえる。

つまり言葉は暴力の正当性の生みの親ともいえる。

つまり正当性を主張するのは言葉しかないということだ。

暴力そのものには善悪や正当性は備わっていない。

そこに言葉があり正当なものかどうか判断される。

よって言葉で戦うしかない。


つまり言葉が苦手な人は正当性を主張しても勝てないということなのだろうか?

それでは言葉の暴力による被害者が増えるのではないだろうか?

だから人々は多数決を採用する。

馬鹿な人が多ければ馬鹿な結論を導き賢い人が多ければ賢い選択をする。

つまり民主主義の末に起きることはみんなの責任なのだ。

これはポピュリズムも同じことだ。

ポピュリズムを間違っているという人は本質を理解していない。

貧富の格差ができて全体の教育格差ができて馬鹿な人が多いから馬鹿な投票をするということでその答えが間違っているかどうかは本来問題にするべきではない。

そんな馬鹿な人々ばかり増えてしまったということが認識できるからだ。

そのときに馬鹿が多いと文句を言っている馬鹿を見ると胸が痛くなる。

馬鹿が増えたならしなければならないのは教育への投資だ。

こいつらは馬鹿だからと弾圧している(言葉の暴力)人は力のアルゴリズムを理解するべきだ。

たしかに民主主義にも穴があるのかもしれないがそれはここではない。


共産主義だろうが民主主義だろうが導き出す答えは、人間が不完全だということにすぎない。

不完全だから美しく、失敗するから愛おしくなる。

そしてなにかで対立しどちらが正当かと争う。

ほんとはどちらも同じことを違う感性で受け取っているにすぎない。

もちろん組織や民族などの背景への優越のために損得感情で争っていることも含めてだ。

何故争うのか。

それは違うから争うのだ。


だけど違うから生まれた価値があるように思えてならない。

皆同じなら機械でいいし、無でもいい。というよりこの時空では存在すらできない。60億人同じ場所には住めない。

だから暴力は抑止力としてしか存在するべきではないのかもしれない。

とはいえ言葉の暴力により一方的に正当性を降りかざし弾圧されるべきではない。

言葉で勝てない、言葉で理解できないということは本当に腹立たしく暴力に訴えたくなる。

それは同時に負けを意味する。

つまり言葉で表現できないということは正当性を担保できないということ。

しかしもしも言葉にできないだけで自分が伝えたい何かがあり、言葉にすれば勝つことができると思うのであれば、敵が強大であればあるほど多くのものを得れる可能性を秘めている。

学ぶ時だ


そこで諦めるのであれば敵にエールを送り、誇りを持って託すべきだ。

そうすることで怠慢ではなく潔さとなる。

これは肉体的暴力でも同じことなのだ。

潔さにある粋な感覚や敵であっても褒め称えることができるような精神性を育む。これは空手などスポーツで育まれるものでもあるが言葉の世界でも同じもので、馬鹿であろうがひょろひょろであろうが認識することは出来るだろう。

しかしこの正体はいったいなんなのだろう?

負けた人すらも美しく見せる、この心の芯にあるものはいったいなんなのだろう?

それは人それぞれアプローチや必要とするところや持つところや、とにかくどこでどういつ感じるか分からないが

それは覚悟だ。


人間の中には夢中になってなにかをしている人がいる。

朝から晩まで走ったり、考えたり、踊ったり、笑わせたり、語ったり、

馬鹿みたいだ。

そうか、この人たちは馬鹿なんだ。

だけどしたいことをしているだけだから自然と覚悟している。

別に自分を騙してないし、嘘もついてない。

失敗なんて考えない。

失敗しても気にならない。

善だの悪だの考えない。

したいことをしてるんだ。

したいことするために周囲を巻き込んで引っ掻き回す。

気付いたらあれしてこれして頼んでる。

世界ではそういう奴をリーダーと呼ぶ。


時が経ち、ふと周りを見てみると

引っ掻き回した後がある。

知らず知らずに傷つけていた。

文句はいうけど恨みを持つ奴はすでにいない。

ひとりきりかもしれない。

残ったのは覚悟を決めてついてきた奴だけ。

こういう集まりを仲間という。

だからこれからはこの人たちの為になりたい。

自然と人はだいたいそう思う。


仲間が増え、目的もなくなり、ただなんとなく一緒にいる。

組織を維持することが目的になる。

お金がいる。資源がいる。生産性も下がりつつある。

そんなとき敵が現れた。

みんなが一つになる。

目的ができた。

負けるわけない。

みんながんばった。


勝つと分配の正当性を仲間が取り合う。

負けると責任の所在を仲間が押し付けあう。

組織がでかければでかいほど、勝ち続ければ勝ち続けるほど責任が圧し掛かる。


新しく人が必要になる。

「御社の理念に共感、、、」

採用したけどだれでもいい。

知らない人が増えたみたいだ。

一体何をしてるんだろう。

仲間だけど仲間じゃない。

効率が良くなっていっぱい作れる。

みんな真面目に仕事している。

眉間にシワ寄せてがんばっている。

子供が生まれてお金が必要らしい。

子供のためか、、、


ふとした台詞が心に響く

初心に帰る

time is money

別にお金がほしいわけじゃない

だけど価値に気づいたんだ

時間がない

やりたいことをやろう


子供のころ夢見たツリーハウス

山の中の木の上に作る家

新しく、仲間を募った

口の聞き方も知らない奴

なんでうちに?

「自分のツリーハウス作りたいから。」


無駄な出費も多かったし初心者だから失敗もした

でも楽しかったし次は失敗もしないだろう

「え?俺社長すか?ただでツリーハウス作れるんすか?任してくださいよ。出来ますよ、もっといいの」

、、、違う奴にしよう


若者はしたいことがたくさんある

今の時代、なんでもできるようでなにもできない。

お金や技術を持っているのは若者じゃない。

お金目当ての投資でもいいけど

やりたいこと、やりたい人がやりたい人とやれば問題ない。

そんな社会は実現可能?

そんな社会にしたいからやる

言葉の力で


労働はストレス以外の何ものでもない

世界を蝕む原因

蝕まれてるのは心です

国は人だ、人は心だ

愛国だ