何故こんなことするのか考えた

※すべての人ではありません

※差別的表現を含みますのでご理解のうえお読みください

集団ストーカーと世界平和

人口削減です

行政など国権に関わる人間が何故国家よりも民族を優越した政策により、法や国益を損なうばかりか人権や個人の自由すらも尊重せず弾圧しまさに不特定多数を死に追いやるような羊の皮を一枚多く被せただけのテロ組織のような行為に及んでしまっているのかを考えました

それは単に悪いものを正義だ必要悪だと称し自らの罪を認めず罰を逃れようとするからその罪という種により生み出されている罰、つまり被害感情を植え付けるような教育を施して傷ついた場合などにおいて被害妄想がその傷を付けた原因の大半を占める場合においても傷がつく場に居合わせた人間に罪があるとしてしまう事によるものです

これは自らが、銃弾飛び交う戦場を作り上げ、傷がつきやすいガラスでハートを作成し戦火に飛び込んで傷がついたから国家権力を使い復讐するという特権を行使する存在がいると言うことです

自らの行いは絶対善であり必要悪なのだという自らの罪から目を逸らすことにより被害感情を刷り込む教育などの行為により起きている弊害、副作用を認識できません。

これは例えるならば自分で植えた種の成長は認識できるが勝手に生えている雑草には見向きもしないことに似ています

しかし現実には植物の成長ではなく心の闇や組織の腐敗、国家のために機能するべき国権だけに留まらず、個人の表現や人権や命、何よりも心や人生を脅かしているということです。

そしてこれらは宗教などを媒介とし世界中に不穏な影を落とし日々増殖しているということを世界中の人々が認識しなければならないと考えています。

確かに先祖や歴史を振り返れば弾圧や抑圧というものは権力構造を維持するため、つまりは文明ですら維持するためにはなくてはならない存在だったのかもしれませんし、それは人類がより良い生を実現するために必要不可欠だったのかもしれません。

しかしながら人類が本当に最低限必要としているものは放漫な衣食住よりも高い精神性を保つことができる社会であり個人の尊厳が脅かされることのない環境だと考えます。

そのためにも個人に被害感情を植え付けたりするのではなく仮に被害を理解させる必要がある場合であったとしてもそれは個人の問題ではなく社会全体の問題なのだと言うことを理解させるような教育でなくてはならないということです。

そうでなければ人類の心には永遠に、平和で穏やかで安らかな社会の実現はできません。

なぜならば心の伴わない見せかけの平和に対し恐怖や嫌悪感を抱くことは個人が集まり合意形成をする事で社会性を保ち生き延びるために感受性を磨いてきた、いわば人間が人間たる所以である理性を持つ人間には当たり前に備わっている機能だからです。

これは一糸乱れぬ全体行動を美しいと感じる反面、本人たちが抑圧的な理由から行っているものであればそれは笑顔であっても不気味に感じてしまうものと全く同一であると言えます。

それどころか国家権力などの逆らいようのない権威などがこれを行使した場合はそれらの行いを正しいと思わなければならないと思いこむことにより、まさに洗脳された状態であり、正しいと思わなければならないと思っていることすらも認識できず自分の意志であるかの如く任務を遂行しているということです。

こういったことを認識、または理解できる程度に宗教や心について教育することは言葉を教えることと同様最低限必要な教養でありこれは社会を形成する国家という共同体の権威を行使する国家の義務と言えます。

しかしながら現状としましては憲法でも一番大事だと考えられる個人の表現や思想の自由ばかりでなく職業や住むとこも宗教や労働組合などを隠れ蓑にした民族を中心とする大きなコミュニティにより操作、弾圧されているという実態があるのではないでしょうか。これはまさに不特定多数に対する社会不安を煽るテロ行為であり、これらの対象になるべく人材は民族コミュニティで選別が行われることやその価値基準などを事前に通達しています。この証明につきましては入念な取材の元に行なっているとしかいえませんが正確には共に育ったのですということに尽きます。

これは差別による弾圧であるということでそればかりかその対象に行っている行為は異性ホルモンの注入、腎臓に負担のかかる薬物などの注入、視力を奪う施行の推奨、成長ホルモンの阻害、極端に痩せるまたは太る薬物の注入、皮膚の粉吹き、乾燥、皺など差別の影響で自分たちに現れているものであるから現世でお返しをしろと主張している症状と同じものであるということに注目していただきたいです。

これはつまりこれら国権を悪用したオペレーションの発案者は必要悪どころが先祖の復讐を日本人や韓国人(済州島4.3事件による北朝鮮派の南朝鮮に対する復讐)に行うために被害感情を求心力としたコミュニティで活動している人々を正義の行いだと騙し先導しているということでそれらの活動の中心人物たちが北朝鮮にアイデンティティを持つ者たちであるということが大方確からしいことであることからもこれはテロどころか国家間の戦争行為と言えるということです。

そして何よりもこういった現実を口にすることすらタブーとし戦後の社会を形成してきたということを理解し日本に根深く潜む権力構造や風習、コミュニティが存在し日本の行く末を先導していることに強く危機を感じるべきだということをご理解して頂きたいのです。

とはいえ恐怖を感じるだけではなんの意味もなくこういったコミュニティを許してきたのは我々日本人の責任であり、在日や部落民に排外的な感覚を持つことは国家のためにも人としても大きな過ちであり、これらは日本が抱えるべくして抱えている問題で、世界中で起きている問題と何ら違いはなく、つまり人類が乗り越えるべき必然的プロセスだということでこれらは弾圧や抑制などでは到底解消できるものではなく、これらを解消するには復讐などに身を焦がしてしまっているいわば北朝鮮の工作員であっても被害者であり日本や世界が生み出した社会の歪みの犠牲者であり我々人類が包摂するべきいわば私達の一部なのだということを深く理解し、危機を感じ、恐怖を乗り越え、受け入れ信じ合い、共により良い社会や生を享受できるようになるまで忍耐強くしっかりと手を取り合えるように努め、そして二度とこのようなことにならない、つまりは戦争や差別のない世界を実現し維持していくために分断を乗り超え様々な人種、価値感を受け入れることができる多様性に富んだ社会や多様な価値観の存在を認め受け入れる寛容な教育を必要とすると考えます。

そしてこれらは日本が国際社会で生き抜くためにも必要不可欠で何よりも北朝鮮派閥のコミュニティの活動によりこれらが阻害されているということを理解しなければならないと考えます。

同時に先進国と言われた日本は2018年においてすでに国際社会に取り残されて四半世紀を迎えているという事実を認識し、日本に深く根ざす北朝鮮派閥の宗教、経済、政治、などなど全てにおいて日本に深く浸透している組織と戦わなければならないということです。

弾圧などではなんの解決にならないということです。

しかし敵味方がはっきりと分けることもできず内部で意見が割れているということも理解しなければなりません。

禁欲の果てに神の思し召しだと懺悔に訪れた少年少女にわいせつ行為を繰り返す神の僕の神父さん、

社長だから先生だから男だから大人なんだからというお題目を掲げ折檻などで恐怖心を植え付け人々を調教するアジア文化、

「助けてもらって当たり前だろ、我々は貧しいんだ、人権的におかしいだろ、もっとよこせ、私はこの地域の代表だ、私が王になる」という自称正当な統治者を名乗る南アフリカのゲリラ集団、

薬物をばら蒔き、依存症や種無し人間を作るために画策する救世主気取りの宗教家、

過去の憎しみを煽り組織の求心力に変え私服を肥やし同一民族を騙し操る差別既得権益者、

飢える子どもたちを尻目に動物愛護を称え多額の寄付を募り上辺だけの動物の楽園で正当なハンティングを楽しむ富裕層、

これらだけでなくすべての想像に容易い悪しき出来事は事実であるだけでなく起こるべくして起こっているいわば逃れようのない人類へ与えられた試練です。

こういった人々も含めて我々は人類でありこれらの問題に真摯に向き合い取り組んでいかなければなりません。

そのためには分断を抑え多様な価値観をもつということですがそれは単に浅はかなどちらとも言えないような中途半端な教義を掲げる宗教などではなくたった一つの真実の答えのあるまさに悟りの境地にすべての人がたどり着くようにしなければならないということであり、これは人類が人類に追う義務でありこれらを推し進める責任が国家にはあるのだということを残しておかなければならないと思い書き綴りました。

ポピュリズムを抑制しようと情報操作を行い、同時に不都合な人間を弾圧するくらいなら、日本人として、それは人種や歴史に関わらず日本に帰属意識、つまりはアイデンティティを持つ者として世界大戦は大東亜戦争なんだと胸を張って言えるためには日本こそがまずは自らを正し国際社会の為に命をかけることができるんだということを表現しなければなりません。

富やお金に心を奪われ経済的自由のために個人の自由を阻害し計画された経済に身を落とすしかない現代の日本人を知れば一昔前の地域社会のために命を投げ売った先人達は無念でたまらないと思います。

そしてその人たちは今も少なからず生きています。

この先も世界から冷たい視線を浴びるくらいなら国家内で殺し合いでもして日本人も日本文化も日本のすべてを破壊し大東亜戦争で日本の歴史を終えたほうがいいのではないかとさえ思えてなりません。

三島由紀夫さんの最後が良いとは言いませんが彼が伝えたかった本質(男らしさ、死の美学)がここにあるように思います。様々な見解もあるとは思いますがなによりも死を持って訴えたのだということです。

すべての先人たちの命をかけることで表現なされたかったものに触れてみてください。表現なされたかったものは何よりもの正当性です。

儒教に触れ阿修羅となり、キリストに触れ餓鬼畜生となり、仏教に触れ人間となり、悟りに至り仏となる。

善悪ともに存在し共存することで人間となり、それらを超越した過去の人々が神とたたえたような存在にすべての人類が至れるまでの道のりこの一点を教えることのみこそが本当の意味での教育と言えるものなのではないでしょうか。

つまり教育とは人生善悪紆余曲折あるけども正しくあろうとするその心を教え育てるということです。

厳密には経験させる、考えさせるという意味です。