道徳を教えるということについての苫米地さんの懸念を解消できるかもしれません

2019/01/10 道徳を教えることについての苫米地博士の不安を解消できるかもしれません


苫米地博士が道徳を授業を学校教育に盛り込むのは危険だ、おかしいとおっしゃっていました

確かに学校で宗教的概念を刷り込むのは問題がありますが実際に道徳を授業を受けた感覚でお話しさせていただきます

ご注意いただきたいのはこれから行われるものがそういったものであるかどうかは分かりませんのでご注意ください


苫米地博士の懸念は道徳とは道であり道教、つまり宗教だと言うことのようです

確かにそう聞くとそうだ!危険だと感じますが実際に道教と言うものはなんなのか、

僕の見解ですが道教は表裏一体を表現されたものだと思います

物事には善悪両面ありますよと言うことなのですが僕は道徳の授業で覚えているのはスイミーの話と車イスの人への対応です

スイミーについては内容は覚えていませんが何かの物語だったような気がします

お伝えしたいのは車イスの人への対応です

駅で車イスの人が券売機で券を買おうとしています

立ち上がることが困難でお札を入れるのが難しそうです

それを見たあなたはどうしますか?というものでした

小学三年生の頃だと思うのですがクラスの殆どの人が「手伝ってあげる」や「助けなければならない」と言ったようなことをグループに別れて答えを探していました

それぞれの発表が終わり先生は驚くようなことをいいました

それは「足が悪いから困っているから助けようとしたのだと思いますがそれはこの人にしてみれば迷惑なことかもしれない」ということでした

当時はその答えに驚きましたが今思えばまさに道

自分達が正しい、してあげるといった思いが時として人を傷つけることもあるという表裏一体を教えていたのだと思います


確かに道教を教えるというとなんだか物騒な感じがしますが実際に教えられた感覚ではどちらかというと反対に答えを教えないという感じでした

なので道徳は何で授業があるんだ?といったような感じでした

答えがない授業というのが僕の世代ではすごく珍しかったのをいまでも覚えていますし、個人的な意見ですがすごく楽しかったです


苫米地博士のように海外にいた人が学校で道徳!と聞くと物騒に思うかもしれませんが人それぞれ答えがあるということを教えるのであればそれはまさに差別のない社会、多様な価値観を認め会える社会、苫米地博士が設定している差別のない社会への一歩となるのではないかと思いました


僕の立場からすれば特定の被害感情だけを刷り込まれるような教育をされている人々は危険極まりないと嫌というほど味わっていますし、反対に甘やかされてお花畑に育っている人々など偏った感性で埋め尽くされているよりは、どちらでもない、人それぞれだという感性を教えるのであればそれは良いものとなるのではないかと思います

被害感情に囚われる人も救うこともできるでしょうし、反対にお花畑の人に危機感を持ってもらうこともできるのではないでしょうか?

もちろん真ん中が絶対に正しいのだということではなく、片方しか見えていない人が違う意見もあるんだなと考えるきっかけになる程度であれば推奨するべきだと思います


とはいえ週に一時間とかまたは道徳を消して自習やドリルの時間に当てられていたものを国語などのように時間を費やすのだとすると学ぶ内容次第では確かに洗脳された子供たちを増やすことになるのではないかとも思いますので内容についてしっかりと吟味していただきネットなどでも観れるような社会に明るい状態で一般人が容易にアクセス監視の出来る状態で行われるように取り計らって戴けることが条件であればよい結果になると思います