馬鹿な天才の卵と天才を軽く超える秀才 武田邦彦教授の関係

すごく頭が良くて素晴らしい道徳観をお持ちの武田邦彦さんが最近問題になっている在宅ライターなどが書く記事についてこんなことを言っていました。「私なんかが論文を書くときは二百くらいの論文を読んで書く、そして参考にした文献をちゃんと乗せる」ということ。

つまりこういうことです。「数百の論文を読みより真実に近いものを書かなければいけないし、その元となるものが無ければ本当か分からない」ということで、それは確かにその通りですしとても大切なことです。

ただ考えてみてほしいのです。

それは一つのお題に対しいくらこれまでのものを見返そうとそれは整理しているに過ぎないと言うことで勿論整理することやより権威ある書物で確かだと言う信用をより揺ぎ無いものにすることに意味や意義があるとしても例えそれが揺るぎようのない真実であったとしても、役に立つかどうかは別の問題だと言うこと。

武田先生のような考えは非常に確からしく保存することや経験則から考えるときには非常に役に立つし、管理や統制する社会ではこれなしには存在すら保てません

いわゆる保守の考えです。

一方武田先生が怪訝に思われる言わば不確かであまり深くない、いわゆる頭の悪そうな若者の書く記事は確かに間違いや書いた人の気分や気持ちが反映されていたり悪いものとなれば故意に嘘までついているように感じられます。

ただ考えてみてほしいのは文字に表すと言うことは少なからず筆者の何かしらの解釈が入るものだということとどれだけ確かで真実に近いとしてもたった一つの発見ですべてが覆される可能性を秘めていいるということ。

さらには例え嘘だったとしても読み手によっては人生を救われたり大成功のきっかけになったり思わぬ新発見だったりします。

そしてなによりも概念と言うものは何万冊集めたところでおおまかに確からしいと言うところは大体同じものを書いており情報のほとんどは何度見返しても書き方や表現が違えどまあ大枠は同じものだと言うことです。

同じものを書いているのですが当り前ではありますが武田先生のようにお堅い人としてはすべてちゃんと知ってからでないとと言うことでしょう。

つまりやはりあの武田邦彦教授を以てしても昭和の詰め込み教育の弊害に犯されているということでそれが正しい正しくないに関わらずやはり新しく革新的なものには否定的にならざる負えないと言うことです。

もちろん武田先生のような頭カチカチの方がいなければ社会は壊れ維持するのは不可能なのでありますが、こと内政時においては技術革新や新たな価値を創造することが大切でもっと言うと他にすることはないし、したいことをしていればよいと考えますのでやはり左と言うか不確かでも新しい何かを生み出す人たちを応援する形で社会を動かしていくと言うことが必要不可欠と考えます。

勿論武田邦彦先生のような方のフォローや支えがあってこそのものでありますので正に現在の日本においては右と左がぶつかり合う様を見られるようになる必要を感じた次第であります。

つまり書いてあることをみてこれは本当だろうかということやどんな人間が書いたかということが大切だと言う文化や伝統を重んじる(過去)人に対し、書いてあることを誰かが読んでどう感じてどうするだろうかという想像や夢(未来)を思い描く人とが共存し役割分担をする社会の実現ができれば雇用の創出だけでなく無駄な金融緩和や民族を優越した無駄遣いが減るのではと思う次第であります。(アイヒマンは軒並み保守だろうと思います。)

こういった局感についてはこちら大局観