ダニエル書を読んでいて思ったこと

ダニエル書を読んでいて思ったこと


高原剛一郎さんの配信をいつも楽しみにしている

揚げ足をとったり自分の論理の方が聖書そのものを解き明かすことができているとナルシズムに浸ったり


もしかして聖書全部読んで無いからこいつは肉を食べたりオナニーをしたりするのではないかと思われていると思ったのですが僕は書物を読んでもほとんどのことを忘れる

因みに聖書全部は読んでない

だけどダニエル書は読んでいたのでまた読んでいて肉はやはり食べない方がいいのかもしれないと思い始めた

それに元々僕は歯応えのある食べ物や野菜が好きなのだ

だけど何やら野菜は毒だと武田邦彦先生が仰っていたり情報が錯綜している

この国は何をしたいのかよくわからない


確かなことはもう安倍晋三ブームは終焉にしようとしているということ

それが何を意味するのかもわからないし結局のところ国家をどうしたいのかもわからない

なぜなら全てに疑いをかけてしまっているからだ


疑いは身を滅ぼすとは真理をついたもので疑うだけでは本当に身を滅ぼす

それは人間が一人では生きていけないからだ

しかし僕の場合は国家を統治する人々が僕たち一族の人生を貶め殺害しようとしている

疑わなければ命がないのだ

しかし生活保護という仕組みが存在する奇跡の時代に生きていることで何とか命を繋いでいる


僕はずっと全てを信じてきた

数十年ヒ素を混入され続けことあるごとに嵌められ蔑まれ笑い者になりながら一緒に笑ってきた

騙されていることにすら気がつかないほどに


実際のところそうした日々が僕のマインドを作り上げているのか比較的人生自体はとても愛や希望に満ちている

こと部落済州島民コミュニティの存在以外に対しては


聖書を読んでいても二面の世界が平行して流れている

疑う自分と信じる自分


疑う自分の根幹にあるものはリアリズムや論理であり、ヨハネが聖書を書き換えてはならないとわざわざ書き加えなければならないほどに聖書には書き換えが行われている可能性が存在する

長い歴史の中でたった一人のアホが聖書に手を加えてしまうだけで全てをむげにする可能性すら秘めている

その現実を掴んで離さない恐怖を背景とした性質がことあるごとに顔を出す

読者よ、気付け!といったようなキリストの弟子による訴え掛けやキリストは生まれ変わったときにはお姿が変わっておられたという描写など


結論からいうと僕は聖書の文字自体は信じていない

なぜなら聖書は人間が残した原理原則普遍の原理として少なからず何かしらのミスを内包していると考えるべきだからだ


しかし元々の性質なのかヒ素の影響なのか考えるのがめんどくさくてことあるごとに人を信じてきた

信じるということはとても簡単で楽なことで自堕落という側面を持つ

そして騙されてしまえば人のせいにすることができる

僕は悪くない

その感性で聖書を読み進めると文字の書き換えが行われていると感じることにより様々な救いが存在する

きっと昔の清き心を持つ人はこう考えたはずだ

このように素晴らしい書物を広めるためであれば書き換えもやむを得ない、主が出てくるSFっぽい描写は嘘臭いから夢を見たという表現に変えてしまおう、これは正義だ、必要悪なのだ

そこにある動機や結果ですら全くの善で満たされている

しかし書き換えがもたらす聖書を不審に感じてしまう人々への影響は悪と言えるものなのかもしれない


そんな二面性を用いながら聖書が表現しているものは何だろうか?ということに思いを馳せる

クリスチャンであればそれは正当性ということに辿り着く

なぜならそこに正当性がなければクリスチャンにはならないからだ

聖書とクリスチャンという普遍の関係性により導かれる答えは自ずと絞られる

聖書×クリスチャン=信じるものは救われる


例えば原理主義者が辿り着くのは大きく二つに表現できると思う

聖書自体が嘘の塊と言ったようなことや主という存在は作り物と言った答え

さらには主という存在がいたとしても主は神様なんかではなく人類を奴隷化していた宇宙人といった答え

大枠でこの辺りに集約されるのではないだろうか?


それらの人間が単純に辿り着くであろう答えを文字を扱う才能に乏しい貧しく社会経験の乏しい子供の頃から不審な宗教などにヒ素の混入などを行われて人生に痛みや絶望を埋め込まれた僕が辿り着いたのは書き換えが行われていようと嘘であろうとほんとであろうと旧約聖書だけが本当で新約聖書は不穏な力を持ちすぎて現実に人々を統治するのには旧約聖書だけではままならないからキリストが命を懸けて人類のために愛を授けて下さったとかいろんな可能性があったのだとしてもそれらを読み解いた人類が辿り着くであろう未来


その未来は単純に7つに表現できる

信じるを是とする

信じないを是とする

全てを是とする

信じるだけは否とする

信じないだけは否とする

全てを否とする

又はどうでもよい、関与しない


しかし国家権力や宗教などの強い力により弾圧なりの関与が存在する僕は関与しないという選択肢を選ぶことはできない

全てを信じるとしたところで全てに騙されてきた僕には信じたフリしかできない

信じないを是としたところで僕に元々備わる信じたいといった感覚信じた方が都合がよいといった感覚や信じることで楽になりたいとする感性を全てに騙されてきた僕にとっては良いものとも言い切れない

どちらとも是としたところで以上のように僕は疑いを持つ性質を持つ


とはいえ高原さんのように信じている人を否とする何てことは考えられない

とはいえ信じないという人を否とする事も聖書が人間の介在する少なくても失敗や間違いが起こる可能性を秘めている以上完全にダメだとは言い切れない

となると必然的にどちらも否とすることはない


この説明を聞くと頭の良い人は信じるを否とすることは信じないを是とすることと同じだ、といったような考えや信じるを是としながら信じないを否とすることもできるといった多元的な答えに辿り着きそもそもの7つの前提に穴があると感じるかもしれない

しかし僕が辿り着いた表現しているものは普遍的にそうあるものではなく時間軸的に人間はそのどれかをチョイスするしかないという選択肢について分類している

つまり信じるは是だ!としている人は同時に信じないは否だと同じことのように思われるかもしれないが選択肢としては同時には存在し得ないということ


それはまさにネットの世界などで言語を使い多くの人々が同時に同じ情報空間に存在している場合に顕著に現れる

これまでの人類では考える必要のない現象が起きている

家から出るときは信じるなんて否だ!と思っていても論議の場に立ち選択をするときには答えが変化したり、信じるなんて否だと思いながらも信じないも否だと思いながらも表現としてはこの7つの投票なり言動に集約されていくことになる

それは一人の人間が同時に別次元に存在することができないからという表現になる


つまりリアルタイムでなく過去の集合体などであれば信じるは否だとは言っていたけど心の中では信じていたんだ、等といったような現象がおこるということでこれは量子論的な見ているときには粒なのに普段は波の性質を持つということと全く同じ現象が起こるということ


つまりこの現時空間において、ここです!と指し示すことは表現の限界として同時に存在できないものを産み出すということになるということになる

僕たちはその絶対に飛び越えることのできない一瞬の選択肢を選ぶということを通じて未来を構築している

それはサピエンス全史の著書であられるユベルアハラリの表現で言えば共通のフィクションということになるし、法やお金という幻想とも言える


しかしどれだけここだと指し示そうとも目の前にどれだけ大きな危険が迫ろうとも起きた後でなければ僕らは確信することはできない


そして僕は未だに自分の身に何が起きているのかハッキリとは認識できていないし日本の権力分布や世界の差別してはならないコミュニティの存在の性質やつまり、僕にとって何が良いとされるものでさらには過去に軸を置くのと未来に軸を置くのでは変化する答えの中で未来しか見ない僕に残された選択肢はどこが正解なのか理解できていない


ただ確かなことは僕はみんなのことを知らないのにみんなは僕のことを知っていてもてあそんでいるように感じているということ


でもとりあえずオナニーを止めてお肉を食べるのはやめておこうと思います

動物の命を奪うこともあるだけでなくダニエル書を読む限り肉を食べない方が頭が良くなる気がするから

魚はどうなのだろうか、、、いや、肉だな

タンパク質を接種しようとすると大豆はイソフラボンかなにかが女性ホルモンの機能を果たすんだけどやはり部落済州島民コミュニティの人口調整による民主主義への介入としか思えない


いつの日か、頭が良くなりお金を稼げて欲望を満たしつつ楽しく子育てが出来るような社会復帰が叶いますように


本末転倒とも言えるこの選択こそが生きているということなんだろう


お金くれれば直ぐに解決する問題だと思うのだけど

お金を稼げる自分を作れるのはお金を持っている人なんだから


それが資本主義なんだ