定義の違う人と論ずる必要性とローマの崩壊はゲルマンの大移動だという定義

定義の違う人と論ずる必要性とローマの崩壊はゲルマンの大移動だという定義


苫米地博士が定義が違う人と論ずるのは嫌だみたいなことをいっていた

言いたいことはわかるし僕のような低レベルなそれとは同じ論ずるでも違うものだということもよぎったけど綴る


定義が違う人にも種類がある

言語の持つ表現の限界により違う人やそもそも情報量の差から来るいわゆる頭の良さによる違い

ただ何となく思ったことを喋る僕のような存在やそもそも答えありきで喋るものだから定義が違うと嘘をつく似非リベラルや似非保守


そんな中でも僕は冤罪とも言える感覚がずれている人にフォーカスしたい

そもそもそんなことをしなければならないのは僕は周りの部落コミュニティすべての人々が僕のみている現実と違う現実を見ていたから

それは能動的にそうなのか、部落コミュニティが特殊なのか、僕が特殊なのか、僕と部落コミュニティのすれ違いがうまいことたまたま違ったのか色々パターンは存在するけどこのブログを見てもらえればどちらが社会悪かは一目瞭然


その上でずれていると言われ続けた僕の想いを届けたい


例えば僕が楽しいと感じたこともある人は楽しくないとなる

こういった主観による感覚の違いを始め多くの違いが存在する

しかしそのすべてを定義していき議論をしていくとこんな現象にぶち当たる


これは全くの悪なのか


つまり際どいグレーなゾーンが存在する

そのグレーなゾーンを定義できないと起こることは細分化

どんどん細かくしていき定義していく

そのどんどん細かくした最後に辿り着くのが結局のところ主観による感覚の違い


そんなことをいったらすべてが水の泡だ

そう、全てが水の泡なのだ


先ほど大好きなチャンネル桜を見ていた

すると西部進先生が僕と同じことをいっていた

現在の日本は崩壊する頃のローマとよく似ている気がすると

これについて気がつかない内に見ていたのかどうかは知らないけど同じようなことをブログで現在の日本は崩壊する、古代ローマのように、と綴っていると武田邦彦教授などがローマはゲルマン民族の大移動で滅んだから違うと言っていた


ここで僕は一つ提言しておきたいのは古代ローマについては実は何も知らない

知っていることはネロという暴君がいたことととても栄えていたのに滅んだということ

現在の日本が滅ぶのは怠惰で不穏な活動を行う人々が増えすぎて統制が崩れ滅ぶという意味でブログに綴った

それに対してゲルマンの大移動という反論となったのだろうけどつまりここでも定義の違いが現れる


それは哲学的な滅ぶ原因と物理的な滅ぶ原因の違いとも言えるのかもしれない


こうした定義の違いの根幹にある基準の違いに折り合いをつけて国家を運営していくのが政治の世界だと思う


つまり国家の行く末や人類の行く末を考えるのであれば定義の違う人々がなぜそうなのかを知る必要がある

定義を越えて全くわかり会えない人も存在していきているということを受け入れなければならない

それはただの嘘つきのくそやろうの戯言に耳を傾けなければならない苦痛の時間なのかもしれない

しかしその人々がなぜそうなのか

その人々はどこでそうなったのか

社会に全くの責任がないと言えるのか

弾圧するのであればその悪をしっかりと受け止める覚悟はできているのか


様々な不必要とさえ思えるプロセスを必要とする現実世界

ただただ確かなことは僕らはみんな生きているということなんだと思う


もしも社会がより良い世界を望むなら、僕たち一族への冤罪に報いてください

それが社会のためだから

お金じゃないというのならお金をください

お金じゃないというのが本心であるのなら、、、

いえ、そうでなくてもお金をください

僕の夢は後はほとんどお金次第のものだけなんです

だって世の中が資本主義だから


ps.そして今、僕はまた奇跡を起こしました

何となくできる気がして衛星が壊れるように念じたら電磁波攻撃が止みました

毎回できるといいな