経験をさせずに納得させようとする富裕層の教育者ほど社会悪となっている者はいない

経験をさせずに納得させようとする富裕層の教育者ほど社会悪となっている者はいない


特に昭和の気合努力根性世代に多いありがちな間違え

筋がどうだとか、さも正しそうなことを並べて正義を語る

その正義を辿っていくと自分はそうだったとか時代がそうだったとか正義と全く関係のない問題へと刷り変わっていく


この正義を語る正義のない人々はお金に辿り着く

それは善や悪をいくら説いたところで数値化された基準がなければ正しいのかどうか証明する基準がないからだ

証明する基準が上手く行ったかどうか、つまり結果の良し悪しに付随するのだから自然と普遍的に拝金主義になる


すると神の名を語る教育者達は言う

お金じゃない

しかしこの多くの絶対的な正義を持っているはずの神の僕たちはお金ではない何かを争っている

それはどちらが正当であるかということでありお金という数値で表していないだけで社会的正当性とも言える数値化されていない基準を奪い合っている

根本的に同じことなのではないだろうか?


お金ではないと言えるのは生活に困ったことのない人々やお金ではないとまで経験をした人

そうでない人にいくらお金ではないと言ったところで意味はない

それどころかお金ではないといっている人こそがお金に執着していると知らしめているようなものだ

お金ではないのであればお金ではないと表現する必要がないからだ

お金だといわれては困るという思惑がそこには存在する

つまりその人々こそがお金だと思っているのだ


聖書を布教する人々にしても同じことが言える

みんなで朗読すれば良いものをあーだこーだと布教活動に励む

例えその根本的な動機などが良いものであったとしても聖書でなければならないという思惑の真相には一神教でなければならずそうでなければ認められないというジレンマを抱えている

つまり同時に排他的理念をもつに至る


僕が聖書を信じるのはあんな古い書物、それも文字を残すことがとても困難な時代、それこそ文字を書いたり学んだりすることすらとても多くのエネルギーを必要とする時代にわざわざ後世に残そうと考えたものであり、例えばそれが書き換えが行われていようと、嘘が書かれていたとしても、歴史的文献に対する敬意というものを持つに至る

主という存在がほんとにいたら困るから信じなければならないとか、信じなければならないと思うように大衆を統治するために書き換えが行われているとか、様々なことが考えられる

しかしそこにある文字にはなされていないリアリティーを感じることのできるということにこそ聖書だけでなく神話や歴史的建造物に至るまで過去や先祖を想い意識を巡らせるという人類に与えられた喜びや良いとされる感性が満たされありがたみや威厳を感じることに変わりはない


それに主という存在がいたと僕は思っているけどそもそも疑う必要性も理由もわからない

わざわざあれほどの長文を数千年も前に残そうとしたほどの想いやそれを残そうとした想い、さらには主という存在が表現している文字から読み取れる人間と全く同じ葛藤や傲慢さや愛や優しさはまさに僕たちが学び得るものであり一つの指針となり、さらには予言めいたものなど信じないと言ったような程度のものでなく明らかに文明が発達するに連れて起こるべき普遍的な現象を表しているとしか思えないようなものだ


それらの現象をまるで主と言われる存在が人類に天罰を下すためにただただイタズラに奮い掛けようとしていると考えるのは僕からすればそれこそが聖書を侮辱しているようなものであり、さらには聖書から読み取れる古代の先人たちのメッセージを読み取れていないのではないだろうかと思えてならない


これら聖書はの解釈についてはまだ全部読んでいないのでまた綴ろうと思うのですが、こと現在僕がYouTubeなどで目にする教育者なのか洗脳しようと思っているのか良く分からない人々には不信感を抱いてしまう

すべての行動の奥には奴隷をなるべく多く従えたいというような浅ましい感性で満たされているように見えて仕方がないからだ

そうでなければ上記のようなことを説明ができないだけでなく発信者の言動から見てとれる人間が何となく感じるであろう嘘を見抜く感性に引っ掛かる


比較的に虎ノ門ニュースは動機が悪とされる人々でない人々で運営されていることは分かるのだけどその哲学的、あるいは宗教的な面から僕の感じている到達点に想いを馳せると何か盲目の中で走り続けている阿修羅道を連想してしまう


やはり現代の日本人に必要なのは、全くの無意味で暇な時間というものを過ごすことに耐えるという一見全く生産性のない時間なのではないかと感じてしまう

そしてその後に見えてくるものを多くの人々が見ることで不穏な存在にはじめて対抗できるのではないだろうか


その目先の日本国家の減速を考慮してでも免れたい危機がすぐ目の前に訪れている気がしてならない


それは一重にテロや暴動を誘発する盲目であるということ


悪を受け入れ独善的な感性を捨て、排外的な気持ちを持たずに弾圧をしていただきたい


特に苫米地博士について思うことがあって、様々な素晴らしい理論を惜しげもなく発信しておられるのは素晴らしいのですが、やはり富裕層がある種の盲目の中で行っていると思わざる終えなくて、それは悪とされる人やいわゆる定義の異なる人々、つまり富裕層から見ればとても貧しい人々への助けとはなり難いものであるのではないかということで、悪や貧困という角度からの目線のない盲目を含む理論であると言わざる終えない

と、同時にそれは博士には無理なものであり人間には比較的無理に近いということになると思う

役割分担としてその中間や反対側の役割を担う存在が居てこそ可能なもので、もちろんそんな役割を担う存在が必要無いくらいに豊かであったり格差の無い世界が理想的なのだということに辿り着く


しかし、とするならば博士の行っている個人の能力を高める方法に引っ掛からない人と個人の能力を高める方法に引っ掛かった人との格差やポテンシャルや運の差による格差は資本主義の原理により世代を越えるごとに開くことを考えると盲目は更に強まるということになると同時にどんどん差別を産み出すというジレンマに辿り着く


電磁波攻撃は全くのただの嫌がらせ

弾圧に関して言えば僕の場合は冤罪だから謝ることが先だと思うよ

後、お金ください