聖書をそのまま読み解くと

聖書をそのまま読み解くと


高原剛一郎さんはこのように言われる

聖書に出てくる主は創造主であり全宇宙の創造主だと


それは本当かもしれないけど一般に出回っている聖書、僕の手にした聖書を読み解くとそれについては書かれていない

なぜなら創世記で主はエデンで実を食べたアダムとイブに対して「あー、これであなた方は私と同じものとなってしまった」と言っている

その後に恥じらいを知るようになり衣服を身に纏った

これは僕の解釈ではエデンのリンゴ、つまりビタミンと糖類が豊富なフルーツを食べることで脳が活性化する

また、動物の油は元気になりすぎ攻撃的になるので食べてはならないとしていると僕は考えた


これはつまり主が人間や地球の環境をお造りになったと言うのは本当だと思うけど人類をどのように見ているかというと同じものとなったけど全く違う生物だと認識していると言うことになる

それは僕たちが命は大切にしたいと考えながらも植物の命を奪うことや牛や豚を食べることと同じようなものなのかもしれない


高原剛一郎さんは主は全宇宙の創造主だと仰るが聖書には宇宙についての記述はない

更に言うなればキリストの愛は本物だし、とても尊敬できるけどその哲学的狭義は旧約聖書で表現なされているリアリズムに対するアンチテーゼ、新約聖書では愛や理念が描かれている

もちろん同時にありのままを感じ考え表現することが描かれているけどこれら全ては主が人間に授けたものでその哲学的表現としては論理的で体系的だとは言えない

ストーリー仕立てなので東洋人やリアリズムから感じる人には悟りに辿り着きにくい

なぜなら当時の主からすれば今の僕たちが猿に芸を仕込むようなものだからだ


一方、仏教の神であられる仏陀ももちろん主に選ばれた存在かもしれないし、キリストのように人工受精というか主工受精というかの対象かもしれない

しかしその残したものや表現なされているものはキリストのそれと全く同じもの

更に言うなれば後の説明原理などから考えるとより体系的で実践的でバランス感覚に優れたものであると言える

勿論、弟子や環境に恵まれただけであるとも言える


キリストは命を懸けてくださった

後に全く違う姿で復活したという一節があることがなにか多くを物語っているように思えてならない


と言うのも主やキリストが授けてくださったものは哲学的狭義にすれば偏りが激しいからだと言える

それはつまり神に仕えるために禁欲の果てに懺悔に訪れる少年に性的悪戯を働いてしまう神父の精神のアルゴリズムと全く同じように善や正しさを押し通すということは他の善や正しさを弾圧すると言うことになるからだ


その点、仏教はどちらも辿ると同じところに行き着き、僕たちが理解するべきは全ては繋がりにより認識が成されており、どれだけ辿ろうとも全ては同じものであり、皆ただ生きているということを表現なされている


時代により必要な思想はまちまちでキリストが仕わされたのはまさにバランスを取るためだと考える方が自然だ

それはつまり主は人類を侵略したり絶望に追い込もうとはしていないということの現れでもある

人類の創造主だと言うのはこの点からも見てとれる


つまり哲学的、あるいは宗教的には仏陀の方が情報を網羅していると言えるということになる

キリストは旧約聖書と主の存在があり完結するものであり精神宇宙の真理には到達成されていない

というかそんなものはないということなのかもしれない

だからこそ主はそんなことにならないようにキリストにより愛を授けたのかも知れない


一応添えておこうと思うのですが仏陀は世界一のプータローとだけ添えておきます

苦しみから救うのにこれほど適した人はいませんが、これほどまでに幸せを無に返す人もいない


産業兵器の蜘蛛に噛まれて超人的パワーを手に入れたおじいちゃんっ子のスパイダーマンが、正義のために戦っている時に自分が原因で起こした事故に巻き込まれ命を引き取ろうとしている祖父から学んだ事がある

「大いなる力には大いなる責任が伴う」


僕たちは正義を語るだけで良いのかどうか

聖書やキリストを崇拝する人は、旧約聖書を蔑ろにしてはならない

そこに現実があり、その現実があるからこそキリストの存在意義があるのだから

旧約聖書を否定することはキリストを否定することと全く同じであると言うことになる


そしてそれは聖書という大いなる力には大いなる責任が伴っていることを認識しなければならないということなのである


僕たちこそが神様なのだから