2680/04/29/23:02 無いことの証明ができる理由


証拠がなければ確信にはならない

これは現代の様々な論理を構築している根幹に存在する普遍的だと言われているものだ

裁判などでも当たり前のようにこの論法が用いられ、物的証拠や自白など様々なものを合わせて確信へと導く


例えば僕に与えられた幼少期からのヒ素の混入のように時を遡ることができない限り証拠を掴むことができない物もある

いわゆる完全犯罪

こうした犯人についてどれだけ怪しい人物を並べてみても、犯人でないことの証明はできない

つまり疑いを掛けることはあってはならない事であるということになる


しかしそれでも僕がこうして言い続けるのは実際に被害に合ったからだ

飲食の時に感じていた不快な感覚や突然の悪漢、度々唐突に何の脈絡もなく与えられる罵声や敵視

これらについてどれだけ言おうとも全てを明らかには出来ない

こうしてどれだけ多くの人々が悔しさの中を生きてきたのか

彼らの復讐だけは権利であり、生まれる前の事が根幹に存在して弾圧されたであろう僕の復讐は許されない


ないことの証明ができなければ


そんな時にフェルマーの最終定理が目に入った

オリラジのあっちゃんがYou Tubeで配信していた

結局のところこのフェルマーの最終定理とやらを証明するためには、無いことの証明をしなければならない


ピタゴラスの定理で証明された直角の三角形の二辺の二乗を足したものが対角線の二乗と連数になるとか

しかしこれをフェルマーの最終定理では、ピタゴラスの定理で二乗にしたものを三乗以上にした場合に連数は存在しないという証明

つまり無いことの証明をしなければならない


数学について僕は全然教養がないけれどなんだかんだで三十六歳になった

その経験から導く答えは数学ではないけれどフェルマーの最終定理を言語で解くことに成功した

つまり無いことの証明をすることが可能であることの証明をすることができるということだ


そもそもピタゴラスの定理について考えてほしい

その根幹にある確信は一体何なのだろうか?

なぜその定理を証明できていると人々は納得をし、更には美しいと感じ奉るのか

キレイに並んでいる事によるその感動には何か意味があるのだろうか?


結論を言うと人間が勝手にこれはすごいと言っているに過ぎない


この物理空間において数字に直したものの中から複雑なのに並べたように見えるものを綺麗だと認識しているに過ぎない

つまりもともとあるものを数字に置き換えてその中で数字的に並べられたように見えるものを綺麗だと定義し、証明できたと感じているに過ぎない

反対に言えば何も証明できたものなど無いということになる

ただなんとなく綺麗だから納得しているだけで本当は証明など出来てはおらず綺麗だから証明だと定義しているだけなのだ


その前提で考えればフェルマーの最終定理は一言で解く事ができる

それは、この時空間には直角三角形の二辺の二乗を足したものが対角の二乗と連数で存在するものがあるだけなのは人間がそれを綺麗だ、並んでいると感じるものが二乗にしか存在しないからだ

反対に言えばその綺麗の意味を変えてしまえばその綺麗だと定義したはずの公式は証明がなされているとは思えなくなるという事になる

それがどれだけ簡素化されたとしても人間がそれを綺麗にはまっている、並んでいる、これが真実だと感じなければ証明はできないのだ


これと同じように僕達一族を殺害している気持ち悪いオウム真理教の残党をオウム真理教の残党ではないと証明することはできないから言ってはならないとしていることを時間軸を添えて覆すことができる

それは被害者が多数存在し多くの人々が気持ち悪いと感じているという事実があるからだ

オウム真理教の残党だと言われたけどホントは犯人ではない人々が傷付くことよりも傷ついた人々が存在するのだから言っていかなければならないのだ

それでもそれは差別だとか犯人でないことの証明ができないから言ってはならないというのであれば今後誰一人として口を開くことはできなくなると言うことになる

部落済州島民コミュニティを始め一部の人が証明がなされていると感じることしか言ってはならないとするのであれば、誰もが自分のルールや感覚や証明されたと思う基準で物事を判断し公の安全なりを害する事が正当なものだとされることになるからだ


それを僕のようなオウム真理教からの弾圧を受け集団ストーカーや電磁波攻撃などの対象となり被害があると言っている人が言っていることは法的に捜査が及ぶことができない超法規的な存在のすることだから調べる事もできない、裁判をしても勝てない、国家権力は情報を開示しない、注意喚起もしない、差別だ、必要悪だ、意味がない、指し示されている民族コミュニティの不穏な集会やテロリズムや歪んだ国家権力の構造を変える必要はない、などとするのであれば国家権力こそが犯人であるということの証明がなされているということになる


なぜなら責任がある筈なのにその責任を果たす気が無いと言えるからだ


つまりこれらの問題について解決に導く為に能動的に共通認識を育もうとする事について同意し行動し証明する承諾を取れるものは犯人ではないことの証明がこれから先についてはなされるという事になる

反対に言えばこれから先について捜査に協力的でない、開示しない、隠す、嘘を付く、などなど気持ち悪い人々は犯人である可能性を疑われても仕方がないということになる


この定理がなされてもまだ言い訳をし責任を逃れるのであれば僕がこれから行う武力行使によるテロリストへの制裁は僕の自衛権に付随するものとなり合法なものであるという事になる

周辺に命の危険が迫っているのだから


分かりやすく言うと、あるとされるものをおいて見ればそれ以外は無いと言うことであり、相対的に無いが存在するということの証明を行ったという事である