根っからの悪

そもそも必要悪と言うものは仕方ない状況で悪とされる行為を正当化し更なる悪を避ける、又は無くす為の悪であるということです。

はっきりと申し上げておきたいことはそれは悪だということ。

そしてその行いによる影響で封じ込めた悪よりもその行いを容認したコミュニティへの不信感などにより生み出す悪やそのことを理由にさらに容認せざる負えない特権を与えることによる生まれる悪のほうが強大で厄介だということです。

現在の日本は上記のような必要悪によって統治している故のタブーが国権に関わっています。

日本は臭いものに蓋をし外部に委託することで、なかったことにできるという素敵な脳みそで回っています。または1プロセス増やすことで違法なものが合法なものに変化すると言うことでまったく第三者ではない第三者委員会や政治家に献金することはは利益供与なので汚職の危険があるから党に献金すれば問題ないというようにです。

まったく無意味な国民を騙すための手続きが増えているだけなのです。

それらプロセスが増えることにより必要な時間や人材や財源はどこが負担しているのでしょうか?もちろん税金が巡り巡っています。

そもそも善悪とはなんだろうか?

善悪というのは正当性についての議論であり、コミュニティに由来します。

それはつまり二つのコミュニティがあれば二つの正義が存在するということです。

とはいえ現在もっとも普遍的正義に近いものがあります。

それは議論をすることを放棄しない、または議論に参加するということです。そして合意するしないに関わらずこれらに伴う決定プロセスに参加するための教養を得るということです。

なぜなら人間は感じ、考え、表現する、この回転なしには存在できないからです。存在があるということは表現しているということであり、その正当性を競う様子が営みであり社会を形成するということなのです。

しかしほとんどの人は目先の生活に終われそういったプロセスには関われません。

そしてそれは統治者にとっては都合のいいことなのです。

つまり国家は不変的な善を排除しているといえます。

必要悪とは

必要悪というのは自分を悪いものだと認めたくない卑怯者の論理によって成り立っているということです。

自らを悪だと認めず正しい行いをしている善良な市民だと自分を正当化し他人を傷つけ自らを担保する浅はかな人間の思考です。

こういった人間が国家権力の中にたくさんいます。

なぜなら守られた環境に身を置き、善悪について考える必要がない生活を送り、与えられた正義を遂行するだけの人間だからです。

ユダヤ人を大量虐殺したナチスのアイヒマンのように真面目で忠実で善良な一国民なのです。

繰り返しになりますが存在があるということは表現しているということであり、その正当性を競う様子が営みであり社会を形成するということなのです。

だからコミュニティの分断により他の価値観に触れることがなくなることが何よりも腐敗を生むものとなり自らの行動すら正しいものなのかさえ分からなくなるのです。

ですから自然と当り前に真面目で忠実で善良な国民が正義を行なっているコミュニティの外では権力の決定を悪としか認識できなくなります。

つまり動機や結果に関わらずその決定は紛れも無く悪なのです。

その悪の存在に気付き十字架を背負い自らの責任の重さを感じ誠実な権力を行使できる人のみが国権に関わる資格を持つ人なのです。

官僚のリアリティ

こういったように人間は頭が良い悪いに関係なく才能に溢れていたとしても自分に関係のあるよりリアルな空間でしか物事を判断できません。

国の財務を左右するにもかかわらずその場の雰囲気や個人の利益のために決断を下す官僚の様に国益を大きく損ない其れによってどれだけの人が不幸になり、死に追いやられるのかといったようなリアリティを持てないのです。

この問題は官僚が悪いとかシステムが悪いとかいった問題ですらなく、卓上の理論に人間はリアリティを持つことは出来ず、さらには目の前で起きることであってもそれは視界に入った想像の中をみているに過ぎないということなのです。

つまり人間は実際に同じ目にあったり自分にも痛みが伴わなければ責任をもった判断は下せないということの証明が21世紀になりようやく経験的に成されたということなのかもしれません。

「自分が大事だから自分を優先した、人間はみんなそんなものだ」という発言を耳にしましたがこれは自分が失敗したことを認めたくない言い訳だと考えられるので自覚があるようですし、追い込むつもりはありませんが天才であろうが聖人君子であろうが判断を下す教育を受けていない詰め込み義務教育を受けた人は判断を下すという点においてお猿さんと変わらないのです。

自発的に行動し判断し責任を取る

当り前で簡単なことですが教育を受けていないと簡単には出来ないようです。

人間はただのサルに過ぎないということを理解することでしか自分が今何をしようとしているのかを正しく認識することすら出来ないのです。

無智の知

解決策

行政の人間による判断の廃止をすることです。

人間の判断が必要な場面ではAIによる判断や国会のような議論する場を設けることが必要(ネットを使えばリアルタイムで可能で日本には見えなくしているプロセスが多くこれには故意的な思惑があるとさえいえます。

そもそも行政が行なっているほとんど全ての作業は人間でないほうがいい場合が多く感情を出したり気分で判断されてはならないのです。

根本的問題点

この問題には実は根本的な原因がありそこを解消することで解決することが出来ます。

言われたことだけをやる教育システム、問題解決の最適化、一つだけの正解の求め方を教えた義務教育が原因ということです。

本来教育というのは精神を育むということであり、それは営みにおいて信じることや疑う経験をさせることであるということでそれを疎かにしてきたのが昭和の義務教育であり現在の日本を統治している人たちの競争原理にもとずく機械的な拝金主義の根本的原因なのです。

つまり必要悪は言い訳以外の何ものでもなく悪を受け入れ悪を行なう覚悟とその現実を理解することを組み込むことは最低限の教養です。ちゃんと十字架を背負うと言うことでありそれでこそ重圧が圧し掛かり責任を感じることが出来ると言うことです。

そしてその悪は必要ですらなく分断があるからぶつかるのであって壁がなければ悪を行なう必要がないので民族という壁を作り、無駄なタブーを作ることで更なる巨悪を生んでいる現在の日本は建前で動くゆえに国民には真実が分からず方向を変えるための判断をすることが極めて難しくなっているのです。

つまり競争原理の中では必要悪を正常に機能させることは人間には不可能だということです。


悪とされる性質を持った人の権利

世の中にはどうしても人を傷つけたり迷惑な行動を取る人が存在する。それは反社会的とも表現されるが生まれながらにそういう性質を持つ場合もあり、蔑ろには出来ないと言うことについて述べさせて頂きたい。

例えば現代として醜いとされる形態を持って生まれたとしたらどうでしょうか。

視界に入ると嫌な気分になるから悪だということが果たして許されますか?

とはいえそう感じてしまう反応を悪だと決め付けることが善なのでしょうか?

アウトローの理屈

これと同じように反社会的な人間であってもその背後には様々な輪廻が存在します。

例えば親の暴力を受けて育った場合、親から愛されていないとは思わず、暴力が愛の一つの形となる例もあります。強くならなければいけないと考える子供が増えるでしょう。

こういった話をすると暴力は駄目に決まっているだろう、という意見が存在しますがそれは時代や環境やタイミング次第です。

自殺だろうと殺人だろうと正当化される場合が大いにあります。

死刑と呼ばれる復讐制度、治安維持と呼ばれる虐殺、名誉と言われる自殺など、、、

発散方法の確立

自ら志願し、戦争で活躍できるように人殺しの技術と精神と肉体を養い、イラク戦争に出向きPTSD(強烈な出来事の影響で精神不安定)になるアメリカ兵がいます。彼らは実際に殺し合いをしてみて「こんなはずじゃなかったのに、、、」ということなのでしょう。

そんな兵隊の中で殺しを止められない、または殺さないと気がすまないという性質を持つ固体が現れることはご存知でしょうか?

彼らの遺伝子は先祖代々狩りの名手や勇敢な戦士の血を受け継ぐものが多いと聞きます。そんな彼らが現代では暴力的で野蛮で忌み嫌われる存在になっている場合にいささか疑問が沸き上がります。

なのでそういった固体を集めて古代ギリシャのコロセウムのようなものを作るというのはどうでしょうか?

闘争心は人間に根ざした大切な本能であるので野蛮だからと蓋をしてしまうのはいかがなものでしょう?国によっては合法化できるであろうからそういったことをちゃんとした管理の上で行なうべきであり、これは基本的人権の中に必要不可欠なものではないでしょうか?

あなたがもし何よりも殺し合いが好きだとしたらと考えてほしいのです。

生殖行為を我慢するより殺しを我慢するほうが辛いとしたら、、、とはいえ管理方法など問題が多すぎることも添えておきます。

そしてこういった人々は自分が傷つき痛みを伴うことも喜びとなりえます。

相模原 障がい者施設の大量殺人

障がいという言い方が問題だとの意見には賛同しますがわかりやすいので使わせて頂きます。

このような事件は耳にするだけでも嫌なものです。しかしなぜこのような考えに至ってしまったかということを真剣に考えることが同じ過ちを繰り返さない最善の予防策になります。

この事件の犯人は自らを正しい行いをしたと思っているようで生産性の低い社会的に利益を提供することができない人間を殺したから正しいということのようです。極端ではありますがまさに拝金主義の歯車を作る日本の学校義務教育を映し出すような精神構造です。この一見すると嗜めるのが難解そうな問題ですが実は生物の生き残り戦略により説明すると納得せざる負えません。

多様性の必要性

一見して社会にデメリットしかない固体(人間)であるように思えますが実は一番尊敬されるべき対象であるということでそれは生命というのが自らを増やそうと考えたのには理由があるということです。

本来ならば永遠に生きていても問題ないが死んだり生まれたり増殖したりすることで臨機応変な環境への対応をやってのけたと言うことでつまり何が起こるかわからない未来に備えていろんな遺伝子を残していくことで対応できたのです。(必要だからそうしたのか、そうだから生き残ったのかについての議論は置いておく)

一見メリットがないような固体であっても確率的に変異を起こし生まれてくるように遺伝子が種の保存の為に行なっているということで、そうすることで何が起こるか分からない未来に対応してきた生命のもたらした技術であり、その固体は確率的に現れる変異という役目を請け負って生まれてくれた、かけがえのない存在なのです。

これは長い年月を生き延びている種には確実に備わっている特性でありこれなしには未来に種を残すことは出来ないとさえいえるのです。

苦しくも現世ではデメリットな変異を遂げて生まれてしまった遺伝子に何かしらで報いることが、理性という人間が人間たる所以を持つ我々の義務であり正当な判断なのです。

実践

競争社会で負けた落ちこぼれは捨てられる存在でも蔑まれる存在でもなく、必然で確率的に生まれた尊い犠牲者なのです。

そしてこういった考えはビジネスや人材育成、組織運営にも適用され、大きな成果と秩序をもたらします。

その意味を語ることが出来る存在と理解するだけの教養が必要ですが対した説明でないことはお分かりいただけたことでしょう。

苦しければ何年だって休めばいいし過ちを犯すこともあるでしょうし負けたからといって終わりではありません。いつかはという希望を持つことだけが人間に唯一与えられた生きる意味なのです。

犯人の青年

犯人の青年は正義感が強く、それは承認欲求から来るものだとしてもこの事実を突きつけられたとき、心に大きな十字架を背負うことになるかもしれませんがこの犯人ですらもまた、我々が報いるべき対象であるということには触れる必要はない

コミュニティの承認を受けておらず他人の領域を侵害する自発性を伴うものであり、それだけの覚悟を持って犯した罪なのだということでなければ彼が自分に課した正当性を否定することになるのだから